仕事が一区切りついたので、眠かったけど新宿で降りて買い物。漫画とCDと雑誌と文芸書。買ったものをまとめて書いておこうかとも思ったけど、まだ読んでもいないのに表に出すのはどうかなと思ってやめた。

いまは矢野顕子さんのHome Girl Journeyを聞きながら、吉田秋生さんの「蝉時雨のやむ頃に」を読んでます。絵がずいぶん変わってて驚いた。ポップになってる。けど遠い目をするときの描写はやっぱり知っているものだったので安心した。内容については、もうすこしはんすうしないと上手く話せない気がする。外はまだちょっと雨が降っていて、こういうときはピアノがしっくりくる。しっとりしてるからかなあ。……こういうときは、なんて言ったけど、最近ずっとピアノの曲ばっかり聞いてる。昔習ってたからなのか、やっぱり特別に反応するみたい。

漫画の中に、今日納品した仕事に関わる描写が出てきた。なにがどう繋がってるかなんて僕の予想できる範囲をまったく超えているなあと思い、僕が関わったことが少しでもいい方向に向かったと祈りたい夜です。

ところで日記とか書いてる人に聞きたいんだけど、作者に敬称ってつけますか?知り合いだったらつける、知らなかったらつけない方が自然な感じもするけど、なんかそれも変な基準だなと思うし、つまり作品を軸にして話してるんだったら、そこにつく情報のひとつとして敬称略になるってことなんだろうけど……。なんかもうひとつすっきりしない。

知人が漫画雑誌で連載をはじめた。ものすごいことだ。

決められた期間であれだけの量のページを、あれだけのクオリティで作画するだけでもとんでもないことなのに、さらにストーリーもあって、面白くなくちゃいけなくて、続けば続くほど新しい展開を出さなければいけない。読者からの辛辣な声もあるだろうし、声があるうちはまだ良くて、反応がないという恐怖とも常に戦い続けなければいけない。なんて過酷な職業なんだろうと思う。

一番大変だと思うのは、自分で自分を代弁者として立てなければいけないところなんじゃないだろうか。お客さんが居て、その希望や展望を補強したり引き出したりしてものを作るほうが、少なくとも話していく相手はいるし、ゴールだって見えやすい。しかし漫画家はそうはいかない。編集ですら、描き手の名前で出ているものに対して責任を分担してやることはできない。

とはいえ、自分が漫画を読むときはそんなことはまったく考えていない。いちおう視覚表現に関わる仕事をしている身だから、形は違ってもいろんなことに想像をめぐらすことはできるけど、意識しようとしなければ頭には浮かんでこない。ペンのタッチが、カメラワークが、構成が、そういった類のものはあとづけで、読んでるときは夢中にしろ無心にしろ、ただ単に「漫画を読んでる」だけ。それぐらい、漫画は身近でさっと手に取れて、何の気なしに読める。受け手に努力を強いない、もっとも垣根の低いメディアのひとつ。だからこそ多くの人のこころに残って、あのシーンは忘れられないよね、なんてどこかの会社の喫煙室で話題になったり、飲み屋で語り草になったり、新たな出会いにおける話題のきっかけになったりするんだろう。

週間少年ジャンプで連載中の「瞳のカトブレパス」を応援しています。

 

ところでこの作品のヒロインは関西弁を話すんだけど、それを読んでいるときにふと思い出した。「いやー標準語で話す女の子って萌える」って関西に住む友人が言ってたことを。それを聞いて僕は、日本ってけっこう広いんだな、というのと、その観点で行くと関西人は得だな、ということを思ったのでした。テレビつけたらたいがい萌えるわけだよね。

「ライブ、良く行ってそうなのに」「そうかなあ」「週末は渋谷AXで、みたいな顔してるよ」「どんな顔ですか」

実は案外(?)行かない。別に特別な理由があるわけじゃなくて、日付をメモしておいてチケット取って……という一連の流れがおっくうなだけなのだろう。どうしても観たいか?と言われたそうでもない気もするし、行くと決めてあとから行けなかった、みたいなことが起こりがちな仕事なので、ついついふらっと行けるところで過ごすようになる。散歩とか映画とか。たまに知り合いに誘ってもらって行くと、やっぱりライブはいいねーなんて言って、CDやらTシャツやら買っちゃうくせに。

ただ、会社にこもりっきりだとさすがにインプットが無くなってしまうので、今月の納品が終わったらちょっと精力的にぶらぶらしてみようかなと思う(精力的にぶらぶらするってすごいな。危ない)。金曜日は友人の誘いでカンノサカンの展覧会を見に行って、お返しに麻布十番を案内することになった(あべちゃんに行きたいだけ)。同行する友人は大阪に住んでいるんだけど、でもこの展覧会は六本木でやっていて、だから「とりあえず」バスチケットを取ったのだそうだ。このフットワークの軽さは素直に見習おう。繰り返しの日常に埋まろうと思ったらどこまでも埋まってしまえるものね。

そういや夏だし、と思ってフジロックやらサマーソニックやらをまとめておくかと思ってblocをひさしぶりに触りなおしてみる。一通りのジャンルを登録していくなかで「夕凪の街 桜の国」が映画になることを知った。観に行かなきゃ。

僕はこの方の書く漫画がとても好きで、もちろんコミカルさ、実験的な表現、視点の効果的な使い方も気に入ってるんだけど、なによりも感動したのは女性の底知れなさ・恐ろしさ・美しさ・かわいさをこんなにも表現できるものなんだ(しかも女性の方が!)と部分。ひとつの台詞、ひとつのコマだけで読んでいる人の「考える部分」を奪ってしまうような……奪うというのは適切じゃないな、いつの間にか埋め尽くされているような、そういう表現がときたま挟まれていて、ふだんが穏やかなだけに、その部分に当たったときの衝撃はとても激しいものだった。

そういうの、みていかないと自分がどういうときにどう思うか、こんな風に考える自分もいるんだとか、分からなくなってしまう。平らなところを掘り起こすために、スコップを突き立てるような感じ。

まともに家に帰れたので、ねぎと床に座って晩酌してます。チーズがお互いにひじょうに好きなのでシェアしてます。だが猫にとって塩分はあまりよろしくないので控えめに。彼がなんでこんなにチーズが好きなのかというと、まだちいさいころに、良く遊んだごほうびとしてチーズを与えられていたのが原点みたい。里親になるべく電車を乗り継いで知り合いの知り合いの家にうかがったとき、そういえば彼はスライスチーズのセロハン的な包みをものすごいいきおいでかじっていたのだった。

今日はとてもよい本を読みました。いしいしんじさんの「ぶらんこ乗り」という本です。これ、たぶん人によっちゃ受け付けない人もいるんだろうなーと思う。あざといとか、裏側が見えるとか、ね、そういう感じ方する人だって居るだろうなーと。なんというか、舞台を見て、舞台っぽいしゃべりが耳障りで入り込めないとか、バンドのプロモーション・ビデオを見て演技してるメンバーに興ざめしちゃうとか、そういう感じ。

僕も基本的にはそういう穿った見方をしながら世をたしなんでいる一人なので、読み始めたときはきけんな匂いがした。けど結果的には読んでるうちに最寄り駅を飛ばしちゃうぐらい引き込まれた。小説でこんなに無心に読んだことってひさしぶりじゃないかしら。率直に言うとMOTHER2が好きならぜったい好きだと思います。つよくすすめる。ちょっとふざけて、つくりものっぽくて、ひねた形でしか伝えられないことってある。

その小説の小箱がでてくるくだりで、僕は去年あるイベントでもらった小箱のことを思い出した。そいつを一通のメールで泣かせろコンテストで見事優勝して、もらった小箱。今その中には、ふだん僕が見につけているもののうち一番大事なものをしまっている。あのとき言った自分の言葉、いまでも覚えてるなあ。それを伝えた相手がもう少しで僕の近くに住むようになる。やあやあ、いらっしゃい。待ってたよ。

明日は一日中、恵比寿。黄色い海をおよいできます。

ここ最近、しばらく連絡を取ってなかった友人といきなり泊り掛けで遊んでいたり、ふとしたきっかけで、お互いのことを知ってはいたけど交流が無かった方と話すようになったりしている。僕は生来けっして社交的なほうではないので、珍しいことだなあと他人事のように感心していたりする。

ここでいう社交性というのは、もちろん笑顔で季節や時候を織り交ぜつつこなれた世間話をするようなことではなく、人とある程度差し向かって相対するという意味でのことだ。そういった世間話がある種のなごやかさを産むのはわかっているから、敬遠はしていたけど近頃はそれなりに受け入れられるようになったと思うし、どういったことを話せばいいのかもわかってきた。

けど特定の人と差し向かうときに僕は、自分の中に何が求められているのか/そういったことを考えないのがよいのか/相手と何が話したいのか/この流れはどこに向かうのか/「どこに向かわせたらそれなりに落ち着きそうか」みたいなことを片隅で考えてしまう癖があって、だからなかなか落ち着かない。

最初のうちは誰だってそうなんだろう、とも思うけど、僕の場合はこれが自分の手の届かないところで勝手に演算されるようなイメージがあって、神の見えざる手によって一定のところまで導かれ、その後はそれを維持されるように、均衡を保つように、オートパイロットで連れて行かれる。僕自身ができるせめてもの抵抗は、表情をできるだけ作ろうとしたり、相手の目を見ようとしたりする、極めて肉体的な表現にとどまる。

多分これは、恒常的に自分に対しての思索を繰り返すうちに、勝手に出来てしまった傾向なんだろう。身もふたも無い言い方をすれば「考えすぎ」なんだけど、考えることそのものが趣味みたいなところがあるから、考えすぎないようになることなんておそらくこの先、考えられない。

じゃあなんだってちかごろ、考えすぎたり考えられなかったり、連れて行ったりとどまったり、落ち着いたり落ち着かなかったりするものが訪れるようになって、それを自分から受け入れて行こうとしているんだろう。しばらく思い返してみると、それはどうやら僕がここで自分のある部分を吐き出しているからなんじゃないだろうか、ということに思い当たった。

僕がここで書いたのを見て誰かが、という直接的な結論ではなく、僕がこの場を使って世間に対してすこしずつ開かれていってることが、空気や雰囲気を伴って、誰かと誰かのあいだを伴って、薄く広く伝わってるんじゃないか、そんな気がする。たとえばそれは電車の中から街を見ているときに、屋根と屋根の間を忍者が飛び交っていく妄想のように。アイスコーヒーにミルクを注いだときのゆるやかな交錯のように。ひどく遠く離れた人とガラス越しに目が合ったように感じる瞬間のように。池袋と新宿では新宿のほうが自分の歩調に周りが近いと感じるときのように。

非科学的ではあるけど、悪いことが立て続けに続くとか、良いことが連鎖するのとかって外的要因じゃなくて自分の目に見えないステータスに左右されるのではないかと僕は昔から感じていて、この現象もそういったことの一環なのではないかなあと思っている。僕自身が少しだけ前に出ることが、実態を伴わなくても何かを変えることがあるんだな、と。どこを軸に置いてこの仮説を紐解けばいいのかはわからないけど、あながち間違ってるわけでも無いんじゃないかなという変な確信もある。

しばらくぶりに家に帰ってきて、顔を洗うために蛇口を勢い良くひねったら、びっくりするぐらい茶色い水が出てきた。そりゃあ築四十年だものな、と思いながらしばらく水を出し続け、それを眺めながら僕はマンハッタンという映画でウディ・アレンが言ってた「水でも飲む?茶色いけど飲めるよ」という台詞を思い出していた。彼はその映画の中で「もう少し人を信じてごらんなさいよ」と諭されていた。僕は別に人を信じてないわけじゃないけど、もう少しストレートに――それは言いたいことを言うということじゃなく「ねじまがらない」という意味で――人に対して開かれていってもいいのかもしれないな、なんて思った。

そしてねぎは、水が茶色くなくなったのを見計らって、風呂桶に貯めるための湯をごくごくと飲んでいた。浄水器を通った水より湯沸かし器を通った湯のほうが好きみたい。変わってるね。

magi <info(at)enil.info>