2007.05.27 sun | さざなみ

ここ最近、しばらく連絡を取ってなかった友人といきなり泊り掛けで遊んでいたり、ふとしたきっかけで、お互いのことを知ってはいたけど交流が無かった方と話すようになったりしている。僕は生来けっして社交的なほうではないので、珍しいことだなあと他人事のように感心していたりする。

ここでいう社交性というのは、もちろん笑顔で季節や時候を織り交ぜつつこなれた世間話をするようなことではなく、人とある程度差し向かって相対するという意味でのことだ。そういった世間話がある種のなごやかさを産むのはわかっているから、敬遠はしていたけど近頃はそれなりに受け入れられるようになったと思うし、どういったことを話せばいいのかもわかってきた。

けど特定の人と差し向かうときに僕は、自分の中に何が求められているのか/そういったことを考えないのがよいのか/相手と何が話したいのか/この流れはどこに向かうのか/「どこに向かわせたらそれなりに落ち着きそうか」みたいなことを片隅で考えてしまう癖があって、だからなかなか落ち着かない。

最初のうちは誰だってそうなんだろう、とも思うけど、僕の場合はこれが自分の手の届かないところで勝手に演算されるようなイメージがあって、神の見えざる手によって一定のところまで導かれ、その後はそれを維持されるように、均衡を保つように、オートパイロットで連れて行かれる。僕自身ができるせめてもの抵抗は、表情をできるだけ作ろうとしたり、相手の目を見ようとしたりする、極めて肉体的な表現にとどまる。

多分これは、恒常的に自分に対しての思索を繰り返すうちに、勝手に出来てしまった傾向なんだろう。身もふたも無い言い方をすれば「考えすぎ」なんだけど、考えることそのものが趣味みたいなところがあるから、考えすぎないようになることなんておそらくこの先、考えられない。

じゃあなんだってちかごろ、考えすぎたり考えられなかったり、連れて行ったりとどまったり、落ち着いたり落ち着かなかったりするものが訪れるようになって、それを自分から受け入れて行こうとしているんだろう。しばらく思い返してみると、それはどうやら僕がここで自分のある部分を吐き出しているからなんじゃないだろうか、ということに思い当たった。

僕がここで書いたのを見て誰かが、という直接的な結論ではなく、僕がこの場を使って世間に対してすこしずつ開かれていってることが、空気や雰囲気を伴って、誰かと誰かのあいだを伴って、薄く広く伝わってるんじゃないか、そんな気がする。たとえばそれは電車の中から街を見ているときに、屋根と屋根の間を忍者が飛び交っていく妄想のように。アイスコーヒーにミルクを注いだときのゆるやかな交錯のように。ひどく遠く離れた人とガラス越しに目が合ったように感じる瞬間のように。池袋と新宿では新宿のほうが自分の歩調に周りが近いと感じるときのように。

非科学的ではあるけど、悪いことが立て続けに続くとか、良いことが連鎖するのとかって外的要因じゃなくて自分の目に見えないステータスに左右されるのではないかと僕は昔から感じていて、この現象もそういったことの一環なのではないかなあと思っている。僕自身が少しだけ前に出ることが、実態を伴わなくても何かを変えることがあるんだな、と。どこを軸に置いてこの仮説を紐解けばいいのかはわからないけど、あながち間違ってるわけでも無いんじゃないかなという変な確信もある。

しばらくぶりに家に帰ってきて、顔を洗うために蛇口を勢い良くひねったら、びっくりするぐらい茶色い水が出てきた。そりゃあ築四十年だものな、と思いながらしばらく水を出し続け、それを眺めながら僕はマンハッタンという映画でウディ・アレンが言ってた「水でも飲む?茶色いけど飲めるよ」という台詞を思い出していた。彼はその映画の中で「もう少し人を信じてごらんなさいよ」と諭されていた。僕は別に人を信じてないわけじゃないけど、もう少しストレートに――それは言いたいことを言うということじゃなく「ねじまがらない」という意味で――人に対して開かれていってもいいのかもしれないな、なんて思った。

そしてねぎは、水が茶色くなくなったのを見計らって、風呂桶に貯めるための湯をごくごくと飲んでいた。浄水器を通った水より湯沸かし器を通った湯のほうが好きみたい。変わってるね。

magi <info(at)enil.info>